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蓼科の文人たちと恋 太宰治編
太宰治の新婚旅行

 

井伏鱒二の媒酌で美知子と再婚し、自堕落な生活を立て直そうとした30歳の太宰治。太宰と美知子は、結婚後間もない八十八夜に信州に出かけ、諏訪、蓼科を訪れました。  1泊目の諏訪で、太宰は酒をとり寄せて乱酔し、26歳の美知子は「テーブルクロスを汚したりして宿の人の手前恥ずかしかった」としています。その翌日、蓼科に着いた太宰は、さらに酒を求め、美知子は「この人にとって自然あるいは風景は、何なのだろう。…おのれの心象風景の中にのみ生きているのだろうか」と、盲目の人と旅するような寂しさを覚えました。
 それでも、太宰は美知子とこれまでとは比べものにならないほど、穏やかで安定した生活を送り、多くの作品を著します。  いよいよ3度目の心中のとき、太宰は「美知様 お前を 誰よりも 愛していま した」と遺書を残しました。若い愛人と玉川上水に入水した太宰は、39歳で帰らぬ人となりました。

波乱の人生を送った無頼派の小説家

青森県北津軽郡金木(かなぎ)村(現 五所川原市)出身。
本名は津島修治(つだ じゅうじ)。
青森県下有数の大地主の子に生まれた。父・源右門は衆議院議員、貴族院議員。17歳頃、習作『最後の太閤』を書き、また同人誌を発行。作家を志望するようになる。弘前高校時代には泉鏡花や芥川龍之介の作品に傾倒する。同人誌『細胞文芸』を発行すると辻島衆二の名で作品発表、井伏鱒二に指導を受ける。このころは他に小菅銀吉、または本名でも文章を書いていた。
1930年(昭和5年)東京帝国大学に入学し、以降井伏鱒二に師事。
1933年(昭和8年)、短編『列車』でデビューし、この作品で初めて太宰治の筆名を用いる。処女作品集『晩年』を上梓してから入水自殺の日まで、多くの小説・随筆を書いた。
1938年(昭和13年)、井伏の仲人で甲府市出身の石原美知子と結婚。
39年の生涯で5回自殺を図り、1948年(昭和23年)に玉川上水における愛人(山崎富栄)との入水心中により生命を絶つ。二人の遺体が発見されたのは、奇しくも太宰の誕生日である6月19日のことであった。この日は桜桃忌として知られ、三鷹の禅林寺を多くの愛好家が訪れる。

太宰治の写真
蓼科の文人たちと恋

明治から昭和初期にかけて、多くの文化人が集い“蓼科文学”を作り上げた一大文学保養地・蓼科。 蓼科温泉 親湯は、多くの歌人や作家がぬる湯に浸かり、文学談義を繰り広げた文化人の常宿でした。
恋の美しさ、愛情の慕わしさを詠った多くの歌人、 愛の喜びと悲哀を同時に綴った作家たちが好んだ宿であなたも、 あなただけの愛のものがたりを紡いでみませんか。


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太宰治 柳原白蓮 瀬戸内寂聴 伊藤左千夫
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