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蓼科の文人たちと恋 斎藤茂吉編
斎藤茂吉の最後の女性

 

 医学、短歌と2つの道を選んだ斉藤茂吉は、53歳のとき、正岡子規の33回忌歌会で、24歳の長井ふさ子と出会います。年の離れた2人の恋は、茂吉はもちろん、ふさ子にとっても生きがいでした。ふさ子が受けた150余の手紙のうち、茂吉の没後10年たって公開された120余には、茂吉の恋情があふれ出ています。
 「…食ひつきたい! …ふっくらとした、すきとほるような、搗きたての餅のやうな、尊い、ありたがく、甘い味ひのしたあのへん!」「これは非常なお願ひですけれども、東京に居られるとき、Y翁と御二人ぎりで散歩されたり、トンカツ食べられたり、映画見たりしないで下さいませんか…」
 しかし、2人の仲を思いつめたふさ子は、父の勧めで見合い、結納までします。「他の人の愛情を受けることは苦痛」と婚約を破棄しました。ふさ子は、茂吉との関係も解消し、歌から離れました。ふさ子は生涯、嫁ぐことはなかったといいます。

蓼科の詩を詠んだ「アララギ」の中心人物である歌人

山形県南村山郡金瓶村(現・上山市金瓶)出身。
高校時代に正岡子規の歌集を読んで歌人を志し、伊藤左千夫に弟子入りした。1913年(大正2年)第1歌集『赤光』を発表。短歌を「生のあらはれ」とする生命主義が美しくみなぎり、広い読者層に衝撃を与えた。精神科医としても活躍し、青山脳病院院長の職に励む傍ら旺盛な創作活動を行った。また、柿本人麻呂、源実朝らの研究書や、『ドナウ源流行』などのすぐれた随筆も残しており、その才能は芥川龍之介らに高く評価された。戦時中は戦争協力していたために、戦後になり批判にさらされた。生涯に全17冊の歌集を発表し、全17,907首の歌を詠み、1953年(昭和28年)雄渾な文業の一生を終えた。
長男に斎藤茂太、次男に北杜夫、孫に斎藤由香がいる。

斎藤茂吉の写真


明治から昭和初期にかけて、多くの文化人が集い“蓼科文学”を作り上げた一大文学保養地・蓼科。 蓼科温泉 親湯は、多くの歌人や作家がぬる湯に浸かり、文学談義を繰り広げた文化人の常宿でした。
恋の美しさ、愛情の慕わしさを詠った多くの歌人、 愛の喜びと悲哀を同時に綴った作家たちが好んだ宿であなたも、 あなただけの愛のものがたりを紡いでみませんか。