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蓼科の文人たちと恋 島木赤彦編
島木赤彦の最初の弟子 夏草のいよよ深きにつつましき心かなしくきはまりにけり

 

 上諏訪村(現諏訪市)に生まれた島木赤彦の恋は、赤彦が校長を勤めた塩尻市の広丘小学校に、静子が新卒教師として就いたことから始まります。静子は、単身赴任の赤彦と一つ屋根の下に起き伏しし、朝夕の食事をともにしました。
 最初の妻を亡くした半年後に、その妹と結婚し、愛情にかけた生活を送っていた33歳の赤彦と、自らも歌をつくり、赤彦を敬愛していた19歳の静子。2人は分校へ出かけたある日の夏に、迷い込んだ草原で互いの愛を認めます。
 赤彦がその日を詠った上記の一首を、「…接吻にもならぬ、握手にもならぬ、併し接吻にも、握手にも、啼泣にも、只一髪を隔てた苦悩の溜息である…」と、解説しています。  恋仲になった2人は、多くの相聞歌を詠みましたが、6年後、赤彦が上京して家族のもとへ去ると、赤彦と静子の関係は終わりを告げました。

諏訪市に生まれたアララギ派の歌人

長野県諏訪郡上諏訪村角間(現・諏訪市元町)出身。
長野県尋常師範学校(現信州大学教育学部)を卒業し、教職の傍ら短歌を作る。正岡子規の歌集に魅せられ、伊藤左千夫に師事。1903年(明治36年)「氷牟呂」を創刊。左千夫の死後、1915年(大正4年)、斎藤茂吉に代わって短歌雑誌「アララギ」編集兼発行人となる。写生短歌を追求し赤彦独特の歌風を確立。アララギ派の歌壇での主流的基盤構築に貢献した。
1926年(大正15年)3月27日、胃癌のため死去。

島木赤彦の写真


明治から昭和初期にかけて、多くの文化人が集い“蓼科文学”を作り上げた一大文学保養地・蓼科。 蓼科温泉 親湯は、多くの歌人や作家がぬる湯に浸かり、文学談義を繰り広げた文化人の常宿でした。
恋の美しさ、愛情の慕わしさを詠った多くの歌人、 愛の喜びと悲哀を同時に綴った作家たちが好んだ宿であなたも、 あなただけの愛のものがたりを紡いでみませんか。