文字サイズ:
蓼科の文人たちと恋 高浜虚子編
高浜虚子の愛弟子 虹立ちて忽ち君のある如し

 

 戦時中、浅間山麓の小諸に疎開した俳人・高浜虚子は、晩年、病弱ながら美しい森田愛子という弟子を得ます。若く多感な愛子は、病気が重くなるほど、生きる希望を句作に見出し、虚子は彼女の境遇を知るにつれ、なお深くいとおしみました。
 虚子が事実をまったく欺かぬという態度で著した写生文『虹』には、愛子とその恋人の柏翠が小諸の虚子を訪ねてきたこと、虚子が愛子の家を訪れたことが描かれています。
 ある時、病身のために同行できないことを悲しむ愛子が、虚子との別れを惜しんで見送った車の窓に、色鮮やかな虹が映りました。「あの虹の橋を渡って鎌倉へ行くことにしませう。今度虹がたったときに…」独り言のようにもらした愛子の言葉は、その後、虚子にいくつもの句を詠ませます。
 『虹』に続く一連の小説には、病の果てに、愛子が31歳の生涯を終えたこと、その一周忌までが描かれています。

戦時中、浅間山麓の小諸に疎開した俳人

愛媛県温泉郡長町新町(現・松山市湊町)出身。
伊予尋常中学時代に正岡子規に俳句を教わる。1891年(明治24年)子規より虚子の号を授かる。1898年(明治31年)『ホトトギス』を引き継ぎ、俳句とともに写生文や小説を掲載、1905年(明治38年)からは夏目漱石の『吾輩は猫である』などの掲載で誌名を高め、自らも『俳諧師』などを発表。多数の傑出した俳人を育て、俳句を普及・繁栄させた。 1944年(昭和19年)太平洋戦争の戦火を避けて長野県小諸市に疎開し、1947年(昭和22年)までの足掛け4年間を小諸で暮した。1954年(昭和29年)文化勲章受章。
生涯に20万句を超える俳句を詠んだ。1959年(昭和34年)85歳で永眠。

高浜虚子の写真


明治から昭和初期にかけて、多くの文化人が集い“蓼科文学”を作り上げた一大文学保養地・蓼科。 蓼科温泉 親湯は、多くの歌人や作家がぬる湯に浸かり、文学談義を繰り広げた文化人の常宿でした。
恋の美しさ、愛情の慕わしさを詠った多くの歌人、 愛の喜びと悲哀を同時に綴った作家たちが好んだ宿であなたも、 あなただけの愛のものがたりを紡いでみませんか。