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蓼科の文人たちと恋 土屋文明編
土屋文明の初恋の人

 

 28歳で諏訪へ赴任し、処女歌集『ふゆくさ』を表した土屋文明。文明には子どもの頃、すでに決まった人がいました。それは小学校同級の塚越エツ子です。村の素封家であるエツ子の父は、幼い文明に「どうだ、エツ子を嫁にやろうか」と声をかけ、それは村中のうわさになりました。成長するにつれ、文明とエツ子も、それを意識するようになったといいます。  ある日、下校途中の文明の行く先で、女生徒が道をふさいでいました。戸惑う文明を目に留めた子が、「この子は通してやりなよ。エッちゃんの親類の子だよ」と言います。だまって歩を進めた文明の目に、顔を赤くして立つエツ子が映りました。「どこの子だね」「エッちゃんのむこさんだんべ」という声も聞こえ、文明は足を早めずにはいられなかったといいます。  文明が中学二年のとき、エツ子は病を得て亡くなりました。のちに、文明はエツ子の姉テル子と結婚します。

諏訪市で教師を務め 歌集「ふゆくさ」を著した歌人

群馬県西群馬郡上郊村(現・高崎市)出身。
高崎中学卒業後上京、歌人伊藤左千夫の庇護により一高、東京帝国大学哲学科を卒業。『アララギ』初期同人となり、清新な叙情的歌人として出発した。諏訪市の諏訪高等女学校・松本高等女学校教師、校長などを務めたのちふたたび上京。『アララギ』の編集に携わる。1925年(大正14年)第一歌集『ふゆくさ』を刊行。現実主義的な独自の歌風を展開し注目された。戦後、『山下水』『自流泉』など時代を凝視する思索的世界を深め、昭和歌壇を指導する大家の一人となる。また、『万葉集』研究者として『万葉集私注』などの歌論集も多い。 1986年(昭和61年)文化勲章を受章。
1990年(平成2年)に100歳の天寿を全う。
没後従三位に叙された。

土屋文明の写真


明治から昭和初期にかけて、多くの文化人が集い“蓼科文学”を作り上げた一大文学保養地・蓼科。 蓼科温泉 親湯は、多くの歌人や作家がぬる湯に浸かり、文学談義を繰り広げた文化人の常宿でした。
恋の美しさ、愛情の慕わしさを詠った多くの歌人、 愛の喜びと悲哀を同時に綴った作家たちが好んだ宿であなたも、 あなただけの愛のものがたりを紡いでみませんか。