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蓼科の文人たちと恋 柳原白蓮編
柳原白蓮のすべてをかけた恋

 

 華族として生まれ、大正天皇の従妹にあたる柳原燁子(あきこ)(のちの柳原白蓮)は、「大正三美人」と称された美貌の歌人でした。
 没落した実家を救うため、26歳で九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門と再婚した白蓮は、意に染まぬ生活のなかで、短歌の才能を発揮します。34歳で宮崎龍介(みやざきりゅうすけ)と出会ったとき、白蓮の人生は変わりました。7つ年下の龍介との恋は、当時の姦通罪に問われることすら恐れない、捨て身のものでした。
 そして大正10年、白蓮は伝右衛門への絶縁状を新聞に公開し、宮崎龍介と駆け落ちをします。これが世に騒がれた『白蓮事件』です。白蓮はすでに龍介の子を宿していました。
 実家に連れ戻され、監禁状態のなかで、龍介の子を生んだ白蓮。2人が結婚したのは、事件から2年後のことでした。夫婦になった2人は、蓼科に別荘を持ち、2人の子と幸せに暮らします。白蓮と龍介は、互いに交した700通余の恋文を、すべて保管していました。

蓼科の詩を詠んだ「アララギ」の中心人物である歌人

東京出身。本名は宮崎燁子(あきこ)。
柳原前光(さきみつ)の次女。実母は東京柳橋の芸者良(りょう)。叔母愛子(なるこ)は大正天皇の母。 1900年(明治33年)14歳で北小路資武(すけたけ)と結婚したが、5年後に離婚。1908年(明治41年)東洋英和女学校に入学し、佐佐木信綱に師事。1911年(明治44年)27歳で九州の炭鉱王伊藤伝右衛門と再婚。「筑紫の女王」とよばれた。その後1915年に『踏絵』を発表、情熱的な作風が注目された。その後、宮崎竜介と恋愛、1921年(大正10年)に家をさる。1935年(昭和10年)から『ことたま」を主宰。戦後は平和運動にもかかわった。1967年(昭和42年)に死去(81歳)。蓼科に別荘を持ち、親湯とも親交があった歌人である。晩年は平穏で幸せな生涯であった。

柳原白蓮の写真


明治から昭和初期にかけて、多くの文化人が集い“蓼科文学”を作り上げた一大文学保養地・蓼科。 蓼科温泉 親湯は、多くの歌人や作家がぬる湯に浸かり、文学談義を繰り広げた文化人の常宿でした。
恋の美しさ、愛情の慕わしさを詠った多くの歌人、 愛の喜びと悲哀を同時に綴った作家たちが好んだ宿であなたも、 あなただけの愛のものがたりを紡いでみませんか。