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親湯温泉

親湯温泉。

開湯400年とも1200年とも言われる温泉。

戦国時代には、武田信玄公が隠し湯として利用。
大正、昭和には多くの文人が温泉保養で利用。

戦時中には帝国海軍の傷病院として負傷した兵士の療養施設。

そして、当時あった温泉プールには諏訪県内中の小学生がプールを利用。
さらにオリンピック選手が温泉プールで練習など。 親湯温泉の歴史は古く、多くの方々に愛された温泉と言って良いでしょう。

これから、具体的に親湯温泉の歴史を紐解きながら ご紹介させて頂きます。



開湯400年を誇る、武田信玄の隠し湯

親湯温泉には、数多くの物語が言い伝えられています。

その中の3つをご紹介させて頂きます

 


戦国時代、武田信玄が戦で傷ついた兵士たちをこの温泉に入れたところ、たちまち、傷が治ったと伝えられています。
その源泉の開湯は、坂上田村麻呂が発見したとか平安時代にまで遡るといわれ、いにしえより、こんこんと湧く温泉は、永い間人々の心身を癒してきました。

この付近には武田信玄にまつわる伝説も多く、 信玄棒道や、信玄が滝に打たれて戦略を練ったという大滝など、歴史に思いを馳せながら、 親湯でのひとときをくつろいでお過ごしください。


1521(大永元年)
武田信玄生まれる。 1541(天文10) 父・信虎を駿河(静岡県)へ追放し、甲斐国主となる。

1542(天文11)
武田信玄は諏訪領内(長野県)に侵攻。
諏訪頼重を滅ぼし、諏訪を平定した。諏訪頼重の娘、由布姫はのちに信玄の側室となり、勝頼を産んだ。

1552(天文21) 甲州から川中島への最短距離を辿ったとされる「信玄の棒道」が、八ヶ岳山麓にできる。山深くにあった親湯は、その頃から傷病兵たちの湯治湯として利用された。

1553(天文22)
越後(新潟県)の上杉謙信との川中島(長野県)の戦いが始まる。戦いはこれから12年の間に、数度にわたって繰り広げられた。

1561(永禄4)
9月10日、武田信玄の軍と上杉謙信の軍との間に、4度目の川中島戦が行われる。これまでの川中島の戦いで最大規模となった。

1564(永禄7)
武田軍と上杉軍が川中島で対峙したが衝突することなく終わる。これが川中島戦の事実上の停戦と言われ、勝敗は決しなかった。

1572(元亀3) 武田信玄は織田信長・徳川家康の連合軍を三方ヶ原(静岡県)にて破る。

1573(元亀4) 武田信玄は織田信長と雌雄を決しようとして出陣中、病にかかり、軍を甲斐に引き返す途中、伊那駒場(長野県下伊那郡阿智村)にて死去。享年53歳。




 






むかしむかし、村に不思議な力を持つ男がありました。
雪解けの時期に、一人蓼科山から降りてきたその男は、ちょうど男手がなかった農家に拾われ、そこで働き手として重宝されていました。その男が育てる農作物はみな実り豊かに育ち、その男が掘る井戸は、みなこんこんと水があふれ出ました。  

その時代、この村は治水が整っていなかったため、すべての田畑に水が行き渡らず、たびたび水争いがありました。何にも増して水が貴重だった時代、男はいつしか水の神さまとあがめられるようになっていました。  

男が村に来て2年目のこと、通常なら何日かに一度大雨が山へ降り注ぐ時期に、はたと雨が降らなくなりました。100年に一度の異常気象です。農作物は日に日にしおれ、太陽が乾ききった土地にぎらぎらと照りつけます。さらに、不思議なことに、めったなことでは水の枯れない井戸まで、その水量を減らし始めたのです。  

実は井戸が枯れ始めたことには、わけがありました。男が拾われた農家には可愛らしい女の子がありましたが、その女の子はいつからか男に惹かれるようになっていました。
女の子と幼なじみのようにして育った名主の若者は、女の子の心が次第に自分から離れ、蓼科山から降りた男に惹かれていくのを、なすすべもなく見ていました。男が憎くてたまらない若者は腹いせに、蓼科山の地下に降り、村へとつながっている水脈を石で止めてしまったのです。

 


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雨の降らない日々が続くに連れ、いよいよ村の生活は荒れ、疫病がはやり、日照りに苦しむ人々の心は荒むばかり。人々はこれまで水の神さまとあがめていた男を邪険にするようになりました。そればかりか、雨が降らず、井戸が枯れたのはその男が村に来たせいだというものさえ現れたのです。ついに雨が一滴たりとも降らなくなって100日目、村をあげて、蓼科山へ雨乞いをすることになりました。名主の若者は雨乞いの祈祷者に、蓼科山から降りてきた男を推しました。もし雨乞いがうまく行かなかった場合、その男に責めを負わせて、村から追放しようと考えたからです。  

蓼科山のふもと、今の親湯にある不動明王のもとで、雨乞いは行われました。男は不動明王のある一枚岩の前にひざまずき、寝ずに天を仰ぎ、祝詞を唱えて雨乞いを続けます。1日、2日と過ぎますが、空はからりと晴れわたり、一向に雨の降る気配はありません。固唾を呑んで見守っていた村人たちも、時間が経つに連れ、あきらめたように一人、また一人と山を降りていきます。名主の若者は、いい気味だとほくそえんでいました。  

そうして誰もが諦めかけた3日目の夕刻、不意に辺りが暗くなると蓼科山のほうから雷鳴とともに雨雲が広がりました。ぽつぽつと降り出した雨は、夜になると大雨になり、そして一週間、雨は降り続きました。村では、蔵からお酒が次々と出され、ありったけのご馳走を並べて、祝いの宴会が催されました。ありとあらゆる田畑が潤い、小川が水であふれ、井戸にはこんこんと水が湧き満ちています。
そうして雨が上がってみると、男の姿は従えていた者たちもろとも消えていました。  

雨上がりの翌日は、空澄み渡る晴天でした。そのわずか1日の間に、村の風景は緑のかすみがかったようになり、朝蒔いた種が、夕方にはもうつるを巻いていました。その年、村から疫病が消え、かんばつに見舞われたとは思えないほどの実りがあったと伝えられています。井戸に湧きあがる水を不思議に思った名主の若者が蓼科山の地下へ行くと、水脈をふさいでいた石を囲むように新たな水脈が育っていたのです。  

名主の若者は、あの男は100年に一度の旱魃を救いにきた蓼科山の神であったかと、目からうろこが落ちる思いで、手を合わせました。その後、村で男は恵みの神さまとして祀られ、男が雨乞いを行った湯口のほとりに、薬師如来像が建立されました。  

以来、不思議と親湯の近くには、良質の井戸が多くあるようになりました。湧き出す湯はますます湯量豊富になり、その効能も増したと言われています。  

また、薬師如来を祀った薬師堂は、その後の度重なる洪水にも流されずにいたことから、後年、薬師如来は洪水を治める神さまとも、拝まれるようになりました。







むかし、安寧天皇の子孫に、近江国甲賀郡の地頭を務めた甲賀権守諏胤(こうがごんのかみよりたね)という武士がありました。

諏胤には、太郎諏致(よりむね、次郎諏任(よりただ)、三郎諏方(よりかた)と3人の息子がありました。諏胤の死後、父の遺言により一家の総領として、東海道15ヵ国の惣追補使となった甲賀三郎は、春日郡にある三笠山の明神に詣でました。
そこで春日権守(かすがごんのかみ)の孫娘、17歳になる春日姫(かすがひめ)と出会います。
2人はひと目で恋に落ち、その夜、固く夫婦の契りを結びました。 甲賀三郎は春日姫を伴って近江へ戻り、幸せに暮らしたのです。

ところがある日、伊吹山の狩りの最中に、春日姫は天狗にさらわれてしまいました。三郎は東海道の山々を片端から探しましたが、春日姫は見つかりません。

甲賀三郎は、ここを最後と信州の蓼科山へ足を踏み入れました。山の中腹にさしかかると、泉のほとりに大樹があり、その根元に人が入れるほどの穴が開いています。

中には恋しい春日姫の衣が落ちているではありませんか。

三郎は勇んで洞窟に入り、捕らわれていた春日姫を救い出しました。しかし地上へ戻った春日姫は、「面影という唐の鏡を穴の底に忘れてきてしまいました。
あれが地底にある限り、魔物は私を必ずや取り戻すでしょう」と泣くのです。三郎は、鏡を取り戻すため、再び洞窟へ引き返していきました。

この時、恐ろしいことが起こりました。




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父の死以来、総領となった三郎をねたんでいた次郎諏任が洞窟へ下がっている綱を切り、根元の穴を塞いでしまったのです。次郎の望みは愛らしい春日姫を自分の妻にし、甲賀三郎に代わって政治を執ることでした。

春日姫を従えて近江へ行った次郎は、甲賀三郎の一族郎党をみな殺しにしてしまいました。 「もう誰にも遠慮はいらぬ」と、次郎は甲賀三郎の邸に居座りましたが、春日姫はがんとしてなびこうとしません。逆上した次郎は、8人の武士に、春日姫の首を切れと命じました。

春日姫が武士たちに囲まれたその折、次郎の噂を聞き付けた甲賀三郎の乳人の妹婿が現れます。

事の次第を知った乳人の妹婿は、武士たちを切り捨てると、春日姫を祖父の春日権守のもとに送りました。

危ういところを救われた春日姫は、蓼科山の樹のもとで7日7晩泣き伏しました。

そして、「この世で三郎殿に会えないなら、今から7日のうちに私の命をお取り下さい。会えるなら、私を何百年でも生き長らえさせてください」と祈り、三笠山の深い谷へこもりました。 

一方、地底の甲賀三郎は、何年もの間、地上へ帰る手がかりを求めて地下にある73の洞穴を通り、72もの国を旅します。

最後に訪れた維ゆいまんこく縵国で、末の王女の維ゆいまひめ摩姫を妻にして13年間暮らし、華やかな宴で歓待されますが、春日姫を忘れることができません。

ついに維縵国を後にした甲賀三郎は春日姫の鏡をたずさえ、維摩姫の作った一千枚の餅を1日1枚ずつ食べ、千日の旅を経て、浅間嶺へ出ました。そのとき、地上ではすでに300年もの時が経過していました。

地底の生活により蛇身と化していた三郎は、近江の国の鎮神・兵ひょうずだいみょうじん主大明神の力で人の姿に戻り、再び春日姫にめぐり会うことができました。2人は泣いて喜び、固く結びついた夫婦になりました。

のちに甲賀三郎は諏すわだいみょうじん訪大明神として上の宮に現れ、春日姫は下の宮となって諏訪の守り神となったということです。 

いつしか、大樹の跡に湯が湧くようになりました。
甲賀三郎と春日姫に縁深いこの湯は、結びの湯とも伝えられます。




江戸時代、湯川村に矢崎喜惣次という百姓がいました。喜惣次は大変な働きものでしたが、足の不自由な母親と病気の子どもを抱え、貧しい生活を余儀なくされていました。 

天保4年のある夜、不動明王が彼の夢枕に立ち、「湯川村の東方に、霊験あらたかな湯が湧き出でている」と告げました。
「その湯は、子どもの病を癒し、村に繁栄をもたらすであろう」と言うのです。
あくる日から喜惣次は、畑仕事を早く終えては山へ入り、血がにじむほど歩いていで湯を探しました。
しかし、湯は見つかりません。

村人たちは、山へ出る喜惣次をもの笑いの種にしましたが、喜惣次は諦めません。
子どもはやせ細り、母親は座ることもままならなくなっていました。喜惣次は、農作業でくたくたに疲れた体を引きずって、来る日も来る日も山へ出かけます。
子を救い、親を助ける頼みの綱として、喜惣次は山の湯に最後の望みを託していたのです。

そうして6年目の夏、日の出前に目覚めた喜惣次は、蓼科山へ向かいました。まだ足を踏み入れていない蓼科山の谷川を遡ることにしたのです。喜惣次は、水をかき分け、岩にしがみつき、滝を遡り、辺りが暗くなるほどの深い谷を何日も進みました。



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そしてある時、疲れ果てた喜惣次が顔を上げると、谷川のはるか上の方に不動明王が見えるではありませんか。喜惣次は夢中で渓谷を登りました。不思議な形の一枚岩の上に、夢に見た不動明王が立っていました。 

辺りには清らかな水音が響き、不動明王の岩の下に、澄み切った湯が静かに湧き出でています。
喜惣次は泉にひざまずき、不動明王に祈りを捧げました 。

そして、岩の湯に手足を浸けました。
すると、草木のとげや岩石の角などで切った傷の痛みが、みるみるうちに癒されていくのです。疲労で腫れ上がった体の熱も、心地よいぬる湯に吸われていきます。
いつの間にか、喜惣次はうとうとと寝入っていました。目を覚ますと、湯のなかで傷はきれいに治り、体に力が漲っていました。

そののち、喜惣次は湯のほとりに二間けんと三間けんの湯治小屋を建て、村中の人々に開放しました。農閑期になると人々は米を持って訪れ、一年の疲れを癒して、身も心も軽く山を下っていきます。

喜惣次の母は、長年歩けなかったことがうそのように足が治りました。湯のおかげで丈夫になった子は、成長して世にも美しい娘となり、村の内外からの縁談が引きも切らなかったと言われています。

天保12年、「薬以上に効く」と評判の湯を知った諏訪藩主は、湯を湯川村の所有としました。諏訪藩の家老の千野兵庫は、喜惣次の功績を認め、“薬九増倍”と伝えられた湯の効能にかけて、「九くぞうべえ増兵衛」の名を喜惣次に与えました。 

山のいで湯は、「巌の湯」、「新巌の湯」、それをつづめて「新しんゆ湯」などさまざまに呼ばれていましたが、いつしか「親しんゆ湯」の呼び名が主流になりました。その由来は、喜惣次の親孝行、子を思う親心にちなんだ恵みの湯とも、村のあらゆるものを親しく癒す湯として呼び習わしたとも言われています。

 



大正初期の親湯温泉露天風呂

人馬一体という言葉があるように昔は、馬も温泉につかり、人間と一緒に旅の疲れを癒していたようです。
温泉の後は宴会をし、夜になるとまた馬に乗り帰路につきました。

大正時代の開拓者たち

大正から昭和にかけて、高原の澄んだ空気や豊かな自然を求めて、保養所や別荘の開発が進み、温泉保養地としてだけでなく、高原リゾートとしても知られるようになりました。

路線バスと真湯温泉

昔は、馬が歩くことでしか訪ねられなかった親湯温泉。道路の整備と共に路線バスが運行され、人々の足となりました。



路線バスと真湯温泉

高浜虚子や伊藤左千夫を始めとした多くの歌人に愛され歌も詠まれました。



>> 文人たちが読んだ親湯名詩

>> 蓼科を愛した文人達の物語



親湯名詩:歌人が親湯の事を詩にしています。

ホテル親湯、温泉プール

ビーナスライン沿いの蓼科湖まで車の渋滞が出来るほどのにぎわいでした。
戦後まもない頃に、全国でも珍しい、温泉プールとして「フジヤマのトビウオ」古橋廣之進さん等の、多くの水泳選手の練習の場となりました。 当時の温泉プールはありませんが、周りの森や渡り廊下などは当時のまま。豊かな効能と共に今に続いています。


戦後まもない頃の温水プール


親湯 温泉成分表

温泉の成分

一、源泉名/ 信玄の隠湯

二、泉質/ 単純温泉(弱酸性低張性低温泉)

三、泉温/

四、温泉の成分/ 温泉分析書のとおり

五,温泉分析年月日/ 平成一〇年七月二十四日

六、分析者/ (社)長野県薬剤師会 検査センター 清水 正

禁忌症

(一)浴用 急性疾患(特に熱のある場合)、活動性の結核、悪性腫瘍、
    重い心臓病、 呼吸不全、腎不全、出血性疾患、高度の貧血、
    その他一般に病勢進行中の疾患、妊娠中(特に初期と末期)
(二)飲用できません

適応症

(一)浴用 疲労回復、健康増進、美肌効果、神経痛、筋肉痛、
   関節痛、五十肩、運動麻痺、 関節のこわばり、うちみ、
   くじき、慢性消化器病、痔疾、冷え症、病後回復期
(二)飲用できません
(三)入浴の方法及び注意/別紙のとおり
(四)禁忌症・適応症/決定年月日 平成一〇年七月二十八日
(五)決定者/長野県諏訪保健所長 医師 黒田 育子



路線バスと真湯温泉

蓼科温泉とは、親湯、滝の湯、小斉の湯、美遊館(三幸館)、蓼科高原ホテル、山緑閣(さんしかく)、この6軒の温泉旅館を総称した呼称です。

登録商標で有り、現在は蓼科温泉旅館組合加盟の施設が使用可能となっています。